カッパ君がころんでも!

ダウン症を持つ男子中学生との生活と、母のつぶやき

私の父とカッパ

こんばんは
3連休の中日どんな1日でしたか?
我が家では、一昨年に亡くなった月命日を母と私の家族と妹、妹の子ども二人、自宅に集まって、ご飯を食べます、

今もカッパは私の父が大好きです。
父はカッパが生まれてダウン症だとわかった時、
「強そうな顔してるから大丈夫だ」
「かわいい、かわいい」と可愛がってくれました。

私は、まだ父の死を100%受け入れられない所があります。でも、以前よりは随分受け入れられる様に
なりました。
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父はアルコール依存症を患っていました。
小さい頃から大酒飲みで、飲まなければとても優しい父ですが、飲みすぎると母とケンカが絶えず、手をあげる事もありました。

それでも仕事面では、職人としてはなかなかの腕前でした。それをえる母を見て子どもながらに凄いなと思う一面もありましたが、

ケンカが絶えない事で、私は萎縮してしまいました。思春期に入る頃にはどちらの味方にも着けず、
親が嫌いになりました。

私は父が亡くなる間際まで、お酒で家族に迷惑をかける父の事が許せませんでした。
好きになれませんでした。

一番ひどい状態は、バブルがはじけた私がたぶん23歳くらいの頃から始まりました。
父が53歳の頃から、亡くなる76歳までの23年本当に本当に泣かされました。
ここでは、父が母に手を挙げたこと以外は他にもどんな事があったのか、まだ恐ろしくて書けません。

お酒をやめる事ができず、量が増えていきました。
離脱症状もありましたが調べてみると、これでも軽度の方でした。

手を上げるだけでなく、心身の健康面、社会面、
経済面、家族の事酷くなるばかりでした。
母も妹も私もそれぞれの立場で頑張りました。

それでも、カッパは飲んだ父の傍にいることが
好きでした。幹大は一緒の布団に入って寝るのが大好きでした。カッパは、父が飲みすぎて体調を崩して吐くことがあると、父の背中を擦りました。



私か一番辛かったのは、父が家にやってきて
「100円でいいからお金くれよ」
「金ないんだよ。そのくらいいいだろ」と言った事です。

私は、1円たりとも渡した事はありませんでした。

そうすると、大声で罵倒されて泣くまで文句を言われました。泣けば終了しますが謝る事なく、
バーン!とドアを閉めて去っていく事も、何回かありました。

すると、カッパは「おかあ大丈夫?」と慰めてくれました。カッパはそれでも父の事が大好きでした。

母は、家計が逼迫し働き詰めの毎日でした。
両親の身体が本当に心配でした。

父に健康面が心配だからお酒を辞めてほしい。
自分の免許を返納してほしい。
一緒に病院に行ってほしい。
母があんなに頑張って働いた中から、
お酒を買うなんて信じられない。もう、一本足りとも買わないでほしい。
でも、どんなに言っても駄目でした。
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今から5年前に、ふと、父は「アルコール依存症」なんじゃないか?と思いました。

それから、いろんな精神科関連のアルコール依存症の事例を読みました。

たぶんそうだと思いました。

地域の保健センターの保健師さんに相談をしましたが、切羽詰まった感じが伝わらなかったのか、病院の紹介だけで終わりました。

自助グループの紹介をお願いしましたが、すぐには分からず、自分で調べる事にしました。

でも、父が亡くなるの間、自助グループの方と関わるところまではできませんでした。
私も家事と育児と仕事、日々の両立で笑顔を守るために精一杯で、もう余裕がありませんでした。


病院に行ってくれないのなら、接し方を知るために私が、精神科に行き、家族の苦しみを話すのもありかもしれないと思いました。

精神科の外来へ行きました。
「父はアルコール依存症」ですか?と聞くと先生は「そうですね。お酒の量に拘らずお酒を飲むことに対し、自分でコントロールができない。その為に、健康面、社会面、金銭面、家族間で、様々に重大な問題があれば、依存症ととらえていいと思います」と言うことでした。

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話をきいてもらううちに父には悪いけど、この病に関しては、父を突き放すしかない。
絶対に他人様を傷つける事だけは、しないようにこれだけは皆で気をつけて見ていく事にしました。

後は、一家離散だけはしないこと。

但し「私はもう父が重大な病気をしようが.、お金がないとか、仕事を失う、離脱症状に苦しもうが、一切手を貸さない」と先生に言いました。

先生は「実は、それがアルコール依存症を持つ
家族がいた場合の接し方としては、冷たいようでいて、それが一番いいことなんです」
「そこに気がつく所から始まりなんです」と言ってきださいました。

帰り道、父の病気を知りすっきりしました。

でも、新たな苦しみのはじまりでした。

父は絶対に病院にいこうとしません。
アルコール依存症は、本人の意志が弱いから、だらしないからではありません。
セーブが効かない、脳の病気です。

統計では、全国に患う方が105万人、100人に1人がかかると言われている決して珍しくない病気と言われています。

予備軍は400万人とも言われています。

そのうち通院治療している方は、全体の4割です。
そして、後の6割は治療まで行かない事が多いのです。(でも、私としては、受診していない人をどうやって割合として出せたのか疑問です。)

父は「そんなに飲んでない」
「俺の身体はどこも悪くない」
「皆が俺の事をそうやっていうから、
ストレスになって酒を飲むんだ、おまえらのせいだ」と言います。

わが家から100メートル先に両親の家がありました。酔っぱらってわが家によるので「もう来ないで欲しい」と言った事はありました。

それでもお互い家が近い為、頼らないとやっていかれない事があると、うちのおとうに話をしました。

でも、おとうはそんな父に普段通りに接してくれました。おとうは、父を責める事は決してありませんでした。感謝しています、

父もそんなおとうを頼りにしていました。

病院に行こうとしない父について、私は、この病気は家族だけが背負って治るようなものじやない。

そう考えているほど甘くないと思っていました。

断酒という言葉があります。しかし、その後に一滴でも飲んだら逆戻りします。
再発率が非常に高く、飲まなくなってもそういう状態が続くだけで、一度かかったら完治はないと言われています。

病院で治療を受け連携をとらないと、このままの状況が続きます。

こんだけ私が悩んでいても、私の子ども達は父の事が大好きでした。酔っていても遊びに行きました。


私は父の事が嫌いでも、子どもにとってはたった一人のおじいちゃんです。
やっぱり、嫌いにはさせてはいけないと、私が悩むところは子どもに見せないようにしました。

カッパが父と一緒に畑仕事をする事が大好きでした。

父の家には小さな畑がありました。f:id:kappa25kun:20190210170114j:plain
今は、ちょっと雑草だらけですが、、💦こういう草を一つひとつ草むしりをしました。

抜いた草を三輪車にいれて運んだり、汚れた場所は一緒に箒で掃いたりしました。
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もう少し経つと一緒に土作りをし耕したり、肥料をまいたりしました。

どの野菜もすべて無農薬で美味しかったです。

夏はゴーヤのグリーンカーテンを作るのが恒例でした。なので亡くなった翌年に支援学級で育てたゴーヤを頂いた時は、父の事を凄く思い出しました。

切なくなりました。
(でも、しっかり美味しくいただきました)

カッパはいろんな体験をさせてくれる父が大好きでした。父もカッパが大好きでした。

でも、父は亡くなる1年前から、身体の調子を大きく崩していきます。

それでも病院にはいこうとしません。

近所の人にも心配されました。
「病院に連れていかなきゃだめだよ」と言われる事が本当に辛かったです。かなり痩せてきた頃から、
父はお酒を飲まなくなりました。

それでも病院へは行きませんでした。

カッパは痩せた父を心配し、毎日のように家へ行きました。

父の様子を見てカッパは「おかあもじじのところへ行こう!」と、でも私は許せず嫌いだったので、行きたくありませんでした。

ですが、毎日カッパと様子を見に行きました。

次第に私も何とかして治ってほしいと思うようになりました。

家族も辛いけれど、本人は自覚がないけれど、深いところでは一番辛いのは父なんだと。

父の命は長くはないかもしれない、、。
そう思った時、お酒によって心身を壊したかもしれないけど、今の状態が少しでも良くなって欲しい事。普通にご飯が食べられ、母と笑って過ごして欲しいと切実に思いました。

こんな私だけど、親孝行したいと思いました。

それでも病院へは行ってくれません。すぐに私も父の事が許せず嫌いになる。

心がぶれて許せなくなる。

情けないですが、そんな事の繰り返しでした。


父は何とか食べられたのは、カロリーメイトおかゆ、甘酒、カッパはそれらをよく見ていました。

一緒に買い物に行くと「おかあこれ買おう」と、いいました。

最後にはオロナミンCを飲めたのですが「数本でいいや」と私は思っていました。
ですが、カッパはどこからともなく「お徳用の本数が沢山入ったオロナミンC」を持ってきました。
そして、少しでも父に飲んで貰いたいと、私にアピールしました。

この頃には、もしかするといつ死んでしまうか分からないと思いました。

1日に数回家へ通いました。

父は更に痩せていきました。

それでもカッパは父の事が大好きでした。
父の顔や名前を書くぐらいですが、それは、励ましの手紙でした。

カッパは何度も届けにいきました。今は、母の手元にとってあります。

この頃は今まで以上に精神科の外来に通い、父の様子を伝え、家族がどうすればいいか指示を得ました。先生には本当に感謝しています。

だんだんと父が望むような穏やかな最期とは、考えるようになっていきました。途中で考えるのを辞めるようになる事が多かったです。

そして、考えていく途中で自分の親がいなくなるという体験した事のない怖さを感じました。

私が、そんな調子でもカッパは必ず父の元へ行き顔を出します。

時には、オロナミンCを持って。

殆ど、父は話さなくなりましたが、お腹がすいたら椅子に座ってなんとか少量ずつ数回にわけて食べる事ができました。

トイレは自分でいくし、なんとかお風呂には入れる体力はありました。

それ以外は寝てばかりでしたが、起きてテレビを見ていましたが、うとうとしている事もありました。

声は体力がなくなり弱々しくだすのがやっとの状態でしたが、それでも病院には行きませんでした。

今にして思うと、父は自分の死を感じていたのだと思います。
理解し難いですが、病院にはいかず自然に枯れていくようなしを望んでいた気がします。

亡くなる3日前まで自分の事はできていました。

別れは突然やってきました。

家の母が父の背中に向かって「大丈夫?」私が「お父さんご飯どうする」と聞きました。

すると、父は何も言わずに後ろ向きで手を振りました「ご飯は今は要らないんだね」と二人で納得しあいました。

しかし、少しして寝返りを打ったかのように「ゴロン」としました。

そして、少し息を荒くハーハー繰り返し、大きく息を吸って一息ついたようにしてそのまま呼吸が止まってしまいました。

そこから先は、私が心臓マッサージをし、母は救急車を、その次は私達家族を呼びました。

子どもたちはすっ飛んできたらしく、私が父を心臓マッサージする様子を呆然として見ていたと母から聞きました。

結局、父は搬送先の病院で父は亡くなります。

その後、周りはどんどん葬儀に向けて動いていきました。私もバタバタしていました。

時々、私は、どうして突然いってしまったのか、
父に「勝手に逝ってズルい」とすら思いました。

周りは慌ただしいのについていけない事がありました。そんな中ですか、親戚や近所の方々は父の為に尽力してくださいました。

父について、こう思いました。

父は病気も回復したとは言い切れず、身体を壊したままで、私は何の感謝も伝えられない自身の境涯に対し、悔いばかりが残りました。

あれだけ家族も苦しんだのに、でも、親孝行もできなかった。父の人生は幸せだったのか

カッパは棺に入った父の顔を何度も覗きに
行きました。

お通夜には、沢山の人が来ました。

大酒飲みで結構人様に迷惑をかけたのに「お疲れ様」と言って泣きながらお焼香をしてくださる方もいました。

そんな時もカッパは私の横で、弔問に来られた方に一緒に挨拶をし、お茶だしをし、親しい人にはカッパなりに父との思い出話をするのでした。

お通夜から告別式そして終わりまで淡々と進んで行きました。

そして父のいない生活が始まりました。

すると、カッパは今度は「ババが心配」と言って
毎日の様に家へ行き、ご飯食べにおいでよと誘います。おかげで一緒に食卓をかこむ時間を持つ事ができました。

少しは母が寂しくない様に、支えになれたかもしれません。

カッパは、お買い物にいくたびに「お花を買おう」と言ってくれます。
お家にいけば、誰よりも早く父の遺影の前に座りお線香をあげ手をあわせます。

そんな姿を見るとカッパは偉いなと思います。

私は、父がお酒を飲んで人様にご迷惑をおかけした事は今でも許してません。

でも、今日皆で集まる機会に父の事を振り返り、書いていくことで、どんな事があろうと私の父であることには変わらない当たり前の事を実感しています。もやもやが少し晴れました。

お父さんへ
人が死んでもし生まれ変わる事があったならば、
次は、孤独さゆえに寂しさをまぎらわす為のお酒ではなく、お友達と楽しいお酒を飲んでください。

親孝行らしいことができたなら、お父さんのお酒も少しは落ち着いたんじゃないかと、思っています。

自分は、看護師なのに人の苦しみに寄り添う難しさと力量の不足を感じました。

ようやく、振り返られる事が出来るようになったので、この経験を生かして行きたいと思います。

お父さんが亡くなった悲しみや、悔いばかりに目を向けてもいられません。
やっぱり、残された家族の今が一番大切だと思うから、お母さんを大事に支えて家族皆で生きていこうと思います。

カッパの将来はいろいろ大変かもしれないけど
大丈夫です。

今日は月命日とあって、家族皆で集まりました。
子ども達は、ダラダラとくつろいでいます(笑)
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これから賑やかにご飯を食べ、お父さんの事を思い出して楽しく振り返ります。



今日は、買い物に言ったらカッパがお父さんの遺影に飾る花を選びました。

黄色いチューリップと色とりどりのバラの花です。

カッパも飾り付けに協力してくれました。

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では、みんなでご飯をいただきます。
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お父さん、みんな元気です。
安心してください。
ではまた。


皆さんへ長くなりました。

ですが、書いたことで一歩前に進むことができました。読んでいただきありがとうございます。

今日も、いい1日でした。
明日もお互いにいい1日でありますように。

ありがとうございます。😊