カッパ君がころんでも!

ダウン症を持つ男子中学生との生活と、母のつぶやき

阪神・淡路大震災の日 No.2

この震災で思い出すのは、自分の入試の日です。

当時、私は23歳で小児病棟に勤め、看護師3年目になっていました。

入試の半年前くらいから、もう一度学生の時みたいに思いきり勉強してみたいなあと

ある学校に入学して、母子看護を学びたいと思いました。
まあ、働きながらの受験勉強は、当然ですが思ってたより大変でした。

色々、経験するなかで今となっては、基本的な(本当に簡単)試験問題が、あの時はしんどくて、結局、殆ど勉強がままならないまま当日となりました。

朝、目が覚めて、「こんなことで受験してもなあ」と気がのらない状態で、テレビをつけると本当にたった今、地震があった状態でした。

詳しい状態はわからなかったのですか、「とんでもないことが起こった分、自分は今出来る事を全力でやらければ」と思い、急いで試験会場へ向かいました。

募集人数は30人でした。受験者数はそんなに多くなかったのですが、全国から集まってきていました。

昨日のうちに、東京に来ていなければ電車や飛行機もストップしてしまい、会場に集えない状態でした。でも、そんな感じの人はいない様子でした。
ですが、自分の地元には全く連絡がとれず、どうなっているのか不安でいっぱいな方もいました。

それでも、試験ははじまりました。

私は、小児看護は何とかクリアしたものの、母性看護が惨敗でした。面接もあって、意気込みだけは話したものの、筆記の出来とあまりにもアンバランスで、恥ずかしくなってしまいました。
当然、ダメだと思って帰ってきました。

でも、受けないよりも自分の今の力量が分かって良かった事。来年は合格するために何が必要かが分かりました。受けてよかったと思いました。

試験の帰りの頃には、亡くなった方や行方不明の方、建物火災や倒壊、ライフラインのストップ、
テレビの映像ではありますが、被害の大きさに驚きました。

自分は大きな災害にはあわない、被害は受けない、
死ぬなんてないと、心のどこかでそう思っていました。しかし、そんな事はないのだと思いました。

志半ばで亡くなった方、この中には亡くなったお子さんやお子さんは助かっても、大事な親御さんを亡くしてしまったという方も沢山おられたでしょう。

人間の命の儚さを実感しました。でも、立ち上がる強さも実感しました。

受験後から、すぐに気持ちは切り替えられました。
受かるはずはないと思っていたからです。

でも、合格していました。後々、先生から聞くと近年、まれにみる少ない受験数だったそうです。😅😅
多分、最下位で受かったと思うので運が良かったんだと思います。

でも、震災がきっかけで受験会場に来られなかった人は誰もいませんでした。それは、嬉しかったです。
ただ現地に帰る事ができず、翌日以降の勤務交替のお願いが大変だったという、受験者の方はいたそうです。
あの時は、携帯が今ほど普及してなかったと思います。大変だったはずです。

世間で起こっていた事から比べたら、自分の悩みや課題など塵のようなものです。結局、入学してから頑張ってみんなに着いていきました。でも、本当に大変でした。

今だったら、もう少し楽しく学べたかもしれませんが、やたら大変でした。

一番年下だったので、少しクラスの人間関係にも苦労しました。本当に実力不足で、実習や論文を書くのに悔しい思いもし、蕁麻疹がでたり鬱にまでなり、しまいには両親まで学校に呼ばれました。
あ~あ😅

でも、そこは看護師の集団です。😅😅恥ずかしいですが、私もみんなに看護していただき!?いい先輩や友人が沢山できました。☺️
何より、これも恥ずかしいですが皆と一緒に卒業しました。

その後、再就職しますが、現場の見方がガラッと変わりました。勉強する、看護って楽しいんだなと思いました。😉

勉強した内容が本当に生きたのは、子どもが生まれて特にカッパが誕生してからかな?と思います。

悩んでも迷っても、その時自信がなくても、生きているからこそ挑戦できるわけで、そのチャンスは来年あるとは限らないです。

周りの意見もいろいろありますが、自分の人生は自分で責任をとれば全然構わない。

なんでしょうね、自分の人生は一度切りだからやりたいと強く思った事なら、それが、少しでも誰かのお役に立てる事なら絶対にやったほうがいい。

それが今を生きている人の使命だと思います。

震災はそんな事を深く感じた出来事です。

今年の年賀状では、その学生時代の友人や先輩から年賀状がきました。

歳には逆らえませんが、みんな元気で活動的です。
やっぱり看護っていいな!と思います。

神戸の街がますます元気でありますように!☺️